桔白(軽度の性的表現)











 桔梗の神は暗闇にいる。……
 白い、冷たいまでに無機質な鋼とガラスとプラスチック。漂白された毛皮と花とカーペット。薬の臭いがすると思うのは錯覚だ。あるじの、甘い粉をはたいたような香りを求めて、桔梗は広い空間に漂う闇をかきわける。彼の神に仕えるようになってから、自分で香水を使うことをやめてしまった。鼻を頼りに、こうして黄昏を彷徨うことが多かったので。高価なウールウォークは蒼ずんだ灰色の海に見える。北欧の血を持つCampanulaには模様が読めない。今、そこへ脱いだ隊服のエナメルの白、こぼれた蘭の花の白、落ちたマシュマロ菓子の白が散らばっていても、直ぐには判らないだろう。足元が絨毯からリノリウムの硬さになった。戦士のしなやかさで、彼は足音を盗んで歩く。頭を向けるたびに流れ落ちる髪の音もせぬように。それは、神との黙契だと考えていた。相手が宵闇に潜む時、無碍に明かりをつけ、はしなくも名を呼んだりなどしてはならない。眼を閉じて、匂いを頼りに両手で花を捕まえる、その隠微な歓びのために。
(沐浴を)
 微かに、雨垂れのように水滴が陶を穿つ音、褪せた石鹸の香りが彼の頬をやわらげる。暖かな湯気を噴き出す扉は何時間も前に冷えたのだ。ではもうすぐだ。頭を拭きもせず、この寒さに無頓着のまま裸足でいるだろうか?あの場所に?
 いた。
 青白いディスプレイの明かりが小さく宙に浮かんでいる。深海の珊瑚のように、光を受けて銀髪がおぼろに霞んでいた。
「白蘭様」
 聴き取れぬほどの囁きが届いた証拠に、小さく揺れる。まだこちらを向かないのは、画面の向こうへ熱中しているせいなのか。バスローブの襟から覗くうなじがぼんやり白かった。また、痩せたようだ、と思い、早く確かめたいと両手が焦れる。猫のように歩み寄って立つと、腰を下ろしている相手の位置から、甘い粉の匂いが薄く昇ってきた。
「桔梗チャン、何」
 声はまだこちらへ還って来ない。桔梗は眼を動かして、乏しい光に浮かぶ卓の上を見た。
「冷えてしまったのでは。お取替えいたしましょう」
 ミルクで伸ばしたヴァン・ホーテンにマシュマロ菓子を二つ三つ。それが手を付けられずに、マグカップの中で冷めていることが多くなったのはいつからか。執事の慇懃さで、猿臂を伸ばして把手に手を入れた。凍るように冷たかった。
「いいよ」
「しかし、」
「要らない」
 無頓着に硬い声が耳を打つ。同時に、水晶の欠片が触れ、押しのけてココアのカップを奪っていった。その冷たい鉱物は彼の指だった。食道を食い荒らす温度の液体を一口あおり、なおも流し込もうとするのを桔梗は反射的に押さえた。
「いけません」
「いいったら」
「新しいものを」
「要らない」
 叩きつける、子供のような強情さ。色のない激情。それが傷ついて捨て鉢な幼い哀しみなのだと、知ったのはいつからか。知りたくなかったと桔梗は思う。いま、ここには虚ろの穴が座っている。涙も溶けるを赦さぬ氷の虚無が。洗い流したごとくに華やかな成功が消え、角度で見えない顔からあの美しい笑みが消え、無表情に、暗闇で、凍えながら、たった独りで。
(旧い友人が去り――)
「失礼します」
 とうとうカップを取り上げると、桔梗は一息にそれを飲んだ。咽喉を刺す痛みがたちまち胃へ下ってゆく。カップを放り捨て、眼の前のあるじの顎を上から掴んだ。小さな、冷たい頤を。
「お叱りは後で」
 まるで雪の像にくちづけているかのようだった。永久氷河の割れ目、碧いフィヨルドの閉ざされた奥をこじ開けて、熱と舌とを入れた。覆いかぶさって躯へ躯を押し付け、少しでも温みが伝われば、生ける者の想いが通じるのなら。腕の中の抵抗を力づくで赦さなかった。次の瞬間に殺されようと構わなかった。
(私がついている)
(この私がついていますから)
 無理やり仰向かせた顎を捕らえ、諦めたような抗いが、微かな震えに変わるまで、桔梗は陵辱を続けていた。訴えるような、猫の咽喉声に似た歔欷が漏れるまで、蹂躙をやめなかった。靴の先がカップを蹴った。
 腕に爪を立てられて、ようやく唇を離した。
「………………」
 息をつく白い顔の表情はよく見えない。が、人形だった躯が、柔らかくくずおれて抱く腕に沿ってきた。香る、あの甘い粉の匂いが鼻へ抜けた。桔梗の脳裏をよぎるものがある。
(パウダー、蜂蜜、グリーン、スカッチ、ミルク、ショコラ、梔子、麝香、バニラ、菫、鈴蘭)
 個人的に知っている調香師の“ネ”に、あるじの香りを思いつくまま挙げてみせたことがある。まだ躯の結びつきを享受する前だった。試験管の林の中で、彼はオリエンタル、オリエンタルと呟きながら小瓶を探し、ムエットの紙片を持ってきた。
(中国のForrestii Rolfeだ。花はこんな)
 液晶の画面に浮かび上がった花は、すっくりと立つ清らな緑色だった。極東の蘭。思いもかけず可憐な姿を、桔梗は眼に焼き付けた。
(この香りの香水を作ろうとしたんだが、なかなかね――)
「苦しいんだけど」
 くぐもった声が連想を断ち切る。厚ぼったい淫靡な蘭と思っていたのかもしれなかった。
気がつけば、大切なあるじの上体を逆に折るようにして、抱え込み、しなう胴が椅子との間で弧を描いて、震えていた。反り返るのにも限度がある、と埋まった声は告げている。慌てて離すと水面に出たような吐息が漏れた。
「申し訳ありません」
「椅子ごと倒れたら、ギャグだったよね」
 くすくすと笑い声が響く。薄闇の中で手を探ると、逆らわずに握って立ち上がった。ぱちん、と音を立ててもう一方の指を鳴らす。たちまち空調の微かな唸りが始まった。視界の隅にあった光がすうと暗くなる。見れば、パソコンのディスプレイが黒く落ちていた。
「エアコンも点けずに、何を見ていらしたのですか」
「星」
 寒くないと雰囲気でないでしょ、と尻上がりの声を残して、あるじは窓際へ行った。夜景の青い光で姿がシルエットになる。桔梗のいるところから夜光虫に輝く海のような都市が見わたせる。これでは、室内を暗くしても星など見えるはずもなかった。高層ビルの最上階、雲の上で暮らすあるじ。パフィオペディラムに入って数年、何故今日になって星など見ようと思ったのか。
(ああ)
 明日はチョイスの日だった。
 あるじは子供のように、両手をガラスについて眼下を眺めている。外の明かりに切り取られた細い影はよるべなく見えた。
「もうネットの中にしか星空がないなんてね」
 声はすっかりいつもの甘い響きだった。呟く背を、近づき、後ろから腕で撫で下ろすようにして包み込む。ぴったり重なり合うと、バスローブを纏った躯が芯まで冷え切っているのがわかった。黒革のコートを着た自分の体温ではおぼつかない。空調はまだ効かない。
「ん、あったかい」
 腕の中で向き直り、タオル地の二本の手が桔梗の首に絡みついた。正面から抱き合い、受け止めるとあの香りがはっきりとする。髪から、耳朶から、うなじから、背から、続く胴から、その下の。……
 頭半分ほど低い躯は、抱いてみればはるかに頼りなく、薄い手ごたえだった。その強さと美しさ、神秘に打たれていた身にとっては、火傷のような驚きと、頭蓋を揺すぶる眩暈だった。この、奇跡の神は、おそらく見せかけよりも純粋で傷つきやすい魂をもっている。闇の中で独り佇む仮面の無表情がそれなのだ。からかいと余裕で武装している笑みがとれて、生地の心がのぞく。ひらいた傷跡が見える。それは生唾を飲み込むほどの昂ぶりだ。氷の龍の、鱗が剥がれた弱い箇所を知っている、自分だけが、そして我と我が身でもって塞ぎたい、とでもいうような。
「あ、ダメ」
 ふいに、あるじが身をよじって腕から逃れようとした。
「案外オスだよね。やーらしー。ダメダメ」
 掌の下にある丸い筋肉の動きよりも、逃げを打つその姿態が桔梗をかっと燃えさせる。腕の中に捕らえた獲物。大人しくしないことが誘いなのだと解っているのか。逃げ出そうとされては奮い立たずにはおれない。口調に、軽みが戻っているのも、桔梗の血を湧かせた。掴んだ腰をますます強く自分にひきつける。
「お許しを」
「やーだ。この前スゲー後悔したもん。桔梗チャンて外見どおりのドS」
「光栄です」
「だから、褒めてるんじゃないんだけどな。駄目だったら」
 海島綿のパイルの手触りを遠慮なく撫で回した。僅かに体をひねるだけで、あるじはくつくつとおかしそうに笑っている。その、妙に無頓着な様、はぐらかすような曖昧な態度がひどく遠く、へし折りたいほど蠱惑的だった。
「神と申し上げましたが、貴方はやはり悪魔ですよ」
 囁いて、逃げる躯を抱えあげた。もどかしくも薄闇を眼で探り、大股に部屋を横切って見当をつけたソファへ性急に下ろす。あるじのベッドには上がったことがなかった。それは己には許されないことだと考えていた。桔梗はうやうやしく、しかし断固たる手つきで貴重な贈り物のリボンをほどく。闇におぼろな白い上膊、綺麗にくぼんだ背骨のつらなり。掌で辿る肌は石膏のように硬く冷たかった。暗がりで咲く、東洋の花だ。脂粉の香りとすがしい姿。
(花をこの手に抱いてしまった。どうしたら)
(折りとれ)
 桔梗の奥で、揺らめく焔の舌があった。もがく動きを体重で封じ込め、脚の間に脚を割り入れ、ゆるく避けようとする顔を探しあてて、ぴったりと手で口を塞ぐ。そうしておいて、耳たぶを噛み、己の欲情の息づかいを耳殻へ吹き込んだ。
「明かりを点けてもよろしいですか?」
「――――、」
「私が、見たい、ので」
 したたる熱さの意味を響きに込めた。その指すところは二人の間で一つしかない。肩甲骨の浮き出した背中の皮膚を、桔梗の長い指が何度もなぞる。手触りでわかる、そこにある御使いのしるし。入江正一はこの痕を見たのだろうか。
 口を塞がれたまま、あるじは微かに首を振った。髪の擦れる音、甘い粉の匂いが一層香り立つ。そのうなじにくちづけ、皮膚をざらりと舐めてから半身を起こした。残忍な期待をこめ、手品師の笑みをもて、桔梗は宙で勢いよく指を鳴らした。

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